親としては、病気の子、障害の子があまりにも目が行って、きょうだいがしっかりしているとそれに甘えてしまったり、安心してしまうことは良くあると思う。
ケアラーアクションネットワーク の持田恭子さん。
2歳年上のダウン症の兄がいる妹として、一緒に育つ。
インターネットが普及し始めたばかりの1996年くらいに、オンラインできょうだいの立場の人と交流する場を作っていた。
2013年よりケアラーアクションネットワークを自分で立ち上げ、きょうだいの立場の人たちにピアサポートの活動をしている。
子どものころの葛藤
子どもの頃は、兄は言葉を話すことができませんでした。「うー」とか「あー」とか言っていました。ところかまわず叫んでしまうこともありました。家の中では、それが当たり前だったけど、外に出ると周りの人からは奇異の目で見られましたね。
当時はまだ《障害者は学校に行かなくてもいい》と思われていた時代でした。母は、医者から「こういう子は、勉強しても無駄だ、就職できないし、早く亡くなるから」と言われたそうです。子どもだったわたしにも偏見や差別が分かる、そんな時代でした。
兄が養護学校(現特別支援学校)に通い始めた頃、わたしも兄と一緒に養護学校に通っていた時期がありました。その時、初めて他の障害児の存在を知りました。彼らも話すことはできませんでしたが、優しくて一緒にいて楽しかったですね。
まだスクールバスが無かったので、兄は都バスを使って登下校をしていました。わたしの役目は、学校帰りに毎日バス停までお迎えにいくことでした。
兄は、ひとりでブザーを押せないので、わたしがバス停で待っていて、バスが到着するたびに中を覗いて、兄が乗っていたらドアを叩くんです。優しい運転手さんだとドアを開けてくれましたが、「バスを叩くんじゃない」と怒って開けてくれなかったこともありました。兄が次の停留所まで行ってしまったことがあって、そのときには「やばい」と思って、急いで家に帰り母に知らせました。
ある日、友だちとまだ遊び続けたかったので、バス停に迎えに行かなかった時がありました。兄は終点まで行ってしまい、大人たちが大騒ぎしながら兄を探している様子を見て、自分がとんでもないことをしてしまったと罪悪感にかられたことを憶えています。わたしが兄から目を話したら何が起きるか分からないと思うようになり、毎日が不安でした。
ある夜、兄が20歳まで生きられないと両親が話し合っていて、偶然その話を聴いてしまったんです。翌朝、学校に行って、急に悲しくなって泣いてしまいました。兄が死んでしまった時に悲しくならないように、自分の中で亡くなった時のことを想像しながら、先にたくさん泣いておけば悲しくならないかも知れないと思って、毎晩泣いていました。自分の兄が亡くなることを想像するのは悪いことだと思っていたので、このことは誰にも言えませんでした。
子育てを頑張っていた母を楽にしてあげたいという気持ちも強かったので、母の話をよく聞いてお手伝いもよくしていました。きょうだい児は、本人も気づかないうちに、女の子は小さなお母さんになり、男の子は小さなお父さんになるんじゃないかな。
親は障害のことを自分で調べたり、専門家から話を聴いたりして学べるけど、子どもは誰かが教えてくれないと障害のことを理解する機会がありませんよね。
わたしにとっては普通のお兄さんなので、一緒にいても兄にどんな障害があるのかわかりませんでした。なぜ20歳までしか生きられないのかも怖くて聞けませんでした。どうして兄が急に自分のアゴを叩き始めるのか、それをどう止めさせたらいいのかもわかりませんでした。
小学生のわたしには、誰も何も教えてくれなかったんです。
大人たちの会話から何が起きているのか察するしかなかった。時には怖いと感じることもありました。
同級生に「なんでお兄ちゃんはしゃべらないの?」と質問されても、どうせ話してもわかってもらえないと思ったので、知らないふりをしました。でも、隠していることもいけないんじゃないか、という気持ちもあって、心の中で常に葛藤していた気がします。
今でもよく覚えているのですが、小学校高学年のある日、学校の行事で披露する寸劇の練習をするために、わたしの家に同級生が何人か集まったことがありました。
わたしは、兄のことをみんなに知られたくなかったので、玄関から直接部屋に入れるように家具を移動してもらって通路を作ったりしました。同級生が来て、練習を始めたら、兄が隣の部屋で「わぁ、わぁ」叫ぶんです。同級生が「どうしたの?」とざわついたとき、兄がアコーデオンカーテンをざっと開けてしまって・・・わたしは、ばれてしまった、という恥ずかしい気持ちと、罪悪感と、みんなの凍り付いたような表情を受けとめきれずにパニックになってしまいました。その後どうしたか憶えていませんが、次の日に学校に行くと、みんながよそよそしくなっていました。わたしは、このことがあってから兄を避けるようになりました。本当は好きなんですが嫌いになって、何とも言えない気持ちでしたね。
母は、わたしが無口になったのは反抗期だからだろうと放置していましたが、クラスでそんなことがあったなんて言えませんでした。わたしは、自分がいじめられていることが母にばれることが恥ずかしかったんです。母に心配をかけたくないというよりも・・・自分が友だちから嫌われている存在であることが母に知られると、母からも嫌われてしまうのではないかと思ってしまったんです。
学校でいじめられて、泣きながら帰ってきても、家の前にある水飲み場で顔を洗って気持ちを切り替えて、明るく「ただいまー!」って帰るようにしていました。
大人になってからも続く葛藤
わたしが30代の頃、大病を患って手術をしました。ステージ3のガン性のある腫瘍を取り除いたのですが、母は、見舞いに来てすぐに「もうすぐお兄ちゃんが作業所から帰る時間だからもう帰るわ」と言って帰ってしまいました。
わたしは、こんな時でも兄が優先されるのかと思って悲しかった・・・。兄の生活リズムを中心に回っていた家族と対話することはもう駄目かもしれないと思ってしまいました。きょうだいって、いつも後回しになってしまう、そう思っていました。
わたしが50歳になり、年老いた母と話しているうちに、「なぜあなたはそんなに我慢強いの?」と尋ねられたことがあるんですよ。わたしは、「小学生の頃から我慢強かったわよ」と答え、あの時のエピソードを打ち明けました。母は、ものすごく泣いて、「あんたがクラスでいじめられていることも知らなかったし、無視されていることも知らなかった、ごめんね、ごめんね」と何度も謝ってくれました。
きょうだいへの声掛けで注意してほしいこと
それは「あなたは自由にいきていいのよ」という言葉です。
本当に進路を決める時ならいいのですが、まだ幼い頃にそんな風にいわれると、「家族のメンバーから外された」ように聞こえてしまうんですよね。
講演会でこのことを話すと、ほとんどのお母さんが、こういった声かけをしていると答えてくださいます。ある20代のきょうだいが当時を振り返って話してくれたんですが、「どうして(お母さんは)“自由に生きていいからね”っていうんだろう。そんな言葉よりも、“いつも助けてくれてありがとう”と言って欲しかった。」と語っていました。
「ありがとう」の一言でいいんですよね。逆に、「お前がずっと面倒をみるように、よろしくな」という親御さんもいらっしゃるようですが、そう言った声掛けは、きょうだいにとっては、もちろん嫌ですよ。(笑)
親亡き後のこと
きょうだいは、きっと将来は障害のある兄弟・姉妹の面倒を自分が見るかもしれないという覚悟を幼い頃から少しずつしていくのです。そうしたくないと思っているきょうだいも、もちろんいます。
途中で兄弟・姉妹と離れて暮らしたりするので、分離する時期がありますが、親が障害のある子どもの面倒がみられなくなったら、あるいは家族に何かあったら、自分が実家に戻らざるを得ないと思っているきょうだいはたくさんいるんです。いつかは自分が親代わりになるんだろうなぁと、心のどこかで思っている。でも、どうしたらいいのかわからない。親とは将来のことを話せないし・・。親御さんは、「まだお父さんもお母さんも元気なんだから大丈夫だ。おまえは好きなことをやればいい」と親心で突き放してしまう。きょうだいは、将来のことについて、親と一緒に話したいのですが、それがままなりません。親は具体的に自分にどうしてほしいと思っているんだろう、どういう気持ちなんだろう。そういうことを知りたいだけなのですが、親御さんにはわかってもらえないんですね。
わたし自身も、長い間家族と離れて暮らしていたので、兄がどのような生活をしているのか、何が好きで、何が嫌いなのか、まったくわからなくて、幼い兄の記憶しかありませんでした。そんな時に、急に親から子育てのバトンを渡されて・・・どうしたらいいのか、何を優先したらいいのか、とパニックになりました。
親とわたしにはボタンの掛け違いが何度もあって、思春期になって家族から離れたので、わたしは兄に関する情報を持っていなかったんですね。自治体に相談すると「きょうだいであっても、福祉情報を知りたいなら自分で学びなさい」と言われたことがあります。でも、きょうだいの生育背景を考えたら、ただ学びなさいというのは酷ですよ。これも講演会の時にはよくお話するのですが、親から知らなくていいと言われ続けて来たのですから、いまになって自分で学べと言われても・・・親心からの声掛けにきょうだいが傷ついていることを周りの人は知らないので、きょうだいが助けを求めても誰も助けてくれない、むしろ突き放されてしまう。
ケアラーアクションネットワークができるまで
30代の時に、ダウン症の親御さんたちがつくった協会を見つけて、自分と同じ境遇の人に会いたいとメールをしました。ほかのきょうだいとお茶でも飲みたいなと思ったんです。その協会からは、「親御さんは紹介できるけど、きょうだいのネットワークが無いから紹介できない。自分で何か作ったらいいんじゃないか?」と言われて、自力でウェブサイトを創りました。そこにきょうだいが集まるようになり、オンラインで気持ちを打ち明け合ったりしているうちに、全国から80名近くの参加者が集まるようになりました。会社から帰ると、夢中になってネットで彼らとやりとりをしていましたね。
数年後、父が大腸がんを患い、実家に行くことが多くなったので、オンラインでのやりとりは閉じて、活動を無期限で休止することにしました。わたしは父とは長い間疎遠だったので、父が亡くなった後で、充分に看護が出来なかったことを悔やみました。やがて母が要介護状態になったのですが、この時は、母の介護は一生懸命しようと思ったんです。でも、母の在宅介護と兄の生活の面倒を見ながら仕事を続けていくことに限界がきてしまって・・・自分一人では面倒が見られなくなって、最終的には、母と兄を引き離して別々の施設に入れたんです。なぜ引き離したのか、親や兄を捨てるのか、と非難されるうちに、わたしは適応障害になり、うつ病になって、会社を一ヵ月休職しました。幸いなことに、すぐに会社に復帰することが出来ました。生活がようやく落ち着いてきた頃に今の夫と知り合い結婚しました。夫には幼い頃からいままでのすべてのことを話して、全部受け止めてもらって、「人生で初めて自分の味方ができた!」と思いました。気持ちが満たされて、心身ともに健康になって、そこでようやく「もう一度、きょうだいに向けた活動を再開しよう!」と思えるようになりました。
きょうだいの集いを始めた当初は、参加者は一人だけでしたが、少しずつ増えていきました。集いでは、まず少人数でグループになり、自己紹介をして、参加動機をお互いに伝え合うことから始めます。グループを変えて話すので、それぞれが置かれている立場などの違いも楽しんでもらっています。
その後、参加者全員で、関心がある課題を共有します。わたしは、それらの共通した課題や悩み事をホワイトボードに書き取ります。きょうだいの集いにリピートして参加しているきょうだいたちは、自分の気持ちが整理できて、自分の言葉で話すことができるようになってきました。
他のきょうだいのエピソードを聴いて、自分もそうだった、悲しかった、あの時自分は怒っていたんだな、とそれぞれの感情を確認してもらうこともあります。そして最後に、関心のある話題を共有しながら、自分が抱えている課題を解決するための心の持ち方をみんなで話し合います。きょうだいの集いのリピート率は50%です。自分がなぜ今までモヤモヤしていたのか、ようやくわかったという人もいます。
こういった活動は、支援ではありません。
自分の気持ちを言葉にするための準備運動をしているようなものです。次のステージに上がるためのステップにしてもらいたいと思っています。ほかのきょうだいたちから学ぶことも多くて、わたしも勉強になっています。
2016年の5月からは、小中学生のきょうだい児向けのワークショップも始めました。
わたしたちは幼い頃に相談相手がいなかったので、大人になってもこんなに元気なきょうだいがいるんだよ・・・ということを伝えたかったからです。小学校の低学年だと「きょうだい」という言葉の意味がわからない子がいます。高学年になると自分の気持ちを言うのは嫌、もっと遊びたいという子が出てきます。仲間と一緒に試行錯誤しながらやっていますね。ここでは、子どもたちに、「わたしたちに相談しなさい」とは言いません。きょうだいが大人になって明るく元気でいる姿を見てもらうだけもいいと思っています。
子育て中のお母さんへ
障害児の療育サービスは昔に比べると充実していますね。お母さんたちには、きょうだいと一緒に過ごす時間を取ってほしいです。手を握り合って秘密のサインを決めておくとか、ほんの些細なことでいいのです。それが親子の絆を深めることになります。スキンシップもたくさんとってあげてほしいですね。
思春期になると親に反抗的な態度をとると思いますが、きょうだいの場合、その反抗的な行動の中に、障害児のことで生じる様々な制限が疎ましくなっていたり、周りの人たちが障害者に対して無理解なことに反発する気持ちが芽生えてきているのかもしれない、ということを心に留めておいてほしいです。ただの思春期の反抗ではありません。
きょうだいが爆発するときは、我慢して、我慢して、とうとう出ちゃった、ということもあるんです。 決して問題行動だとは言い切れないと思います。大事なことは、コミュニケーションをとることです。きょうだい児に、自分は2番目か3番目なんだと思わせないこと、あなたのことはとても大事に思っているよって、いつも伝えてあげてください。
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障害者のきょうだいサポート
ケアラーアクションネットワーク
インタビューアー
花岡千恵
<発達障がいのお子さんを育てているお母さんの味方カウンセラー>
元看護師。重度の知的障がい児を育てています。どんな個性を持った持った子どもでも、そのままで幸せに生きていかれる世界を目指しています。子どもの絵の読み解き、カウンセリング、子育て講座など、個性的なお子さんを育てているお母さんのを応援します。
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