【りんごの木こどもクラブ】子どもも保育者も自分という個性がある

横浜市都筑区にある『りんごの木こどもクラブ』

子どもの心に寄り添う保育をモットーに、自由で子どもそれぞれの個性を重んじる保育の姿は、TVや雑誌など数々のメディアからも注目を浴びる。

その中で、自らも保育者だけにとどまらない様々な活動をする青山誠さん(通称:あおくん)にお話をお伺いしました。


 

保育者と療育者の違い

りんごの木は、本当にいろんな子がくる。

最初はいろんなことするからびっくりするけど(笑)
もちろん保育者も、療育的なことを学ぶ機会はいっぱいある。
でも、療育の専門家と保育の専門家は違うと思っていて、療育の場合はその子が何ができるできないを見て、どんな支援が必要かとか、判断していく必要がある。
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保育者は”集団”としてみる。
かたまりとして動かす動かさない、じゃなくて、1人の子が育つにはいろんな子が関わり合う。

その”関わり合いに対して関わる”のが、保育者の専門性。

例えば子ども同士が物を取り合ったり、一緒に遊ぶ中でぶつかったり。

そこに必要なら関わり合うし、
今は見守るとか、
今は言葉をかけるとか、
言葉はかけないけど、近くにいってみるとか・・・

いろんな子がいて、いろんな関わり合いがある。
その”場が育っていく”というところに、一緒に関わっていくのが保育者だと思う。

その子の特性とか、療育的な観点が必要なら入れるところは入れていくけど、それだけで関わり合いができるかっていうと、保育はそういうことではない。

 

大事なのは”子供が育っていく”ってことだから。

そのための園なのであって、
園のための子どもではない

もちろん自分も、その”場を作る一員”として含まれている。

ちゃんと育つという見通し。

みんな転園してきてすぐって、どうしても激しくなる。

その場に落ち着くまでに、モノを投げたり突き飛ばしたりする。
自分を解放しなきゃいけないからね。

でもそれは、3ヶ月もすると収まっていくというのが、僕たちはわかってる。
経験があるから、わかる。
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はたから見るとぐちゃぐちゃに見えるけど、
ぐちゃぐちゃのまま ちゃんと育つという、見通しが僕らにはある。

場が育つ以前に、保育者の『集団として動かしたい』って気持ちが先にきちゃうと、
子どもから保育が始まらないで、カリキュラムから先に始まっちゃう。

すると”コントロールしたい”って気持ちが、強くなっちゃうんじゃないかな。その中で”コントロールできない子”がでてきちゃうんだと思う。

 

最初から分けない。

雰囲気の良し悪しは、子どもが一番わかっている。言葉だけで生きていない分、彼らの方が感度が強いからね。

例えば、『この子は自閉症だから、こういうことをやっちゃいけないよ。』ってした時点でもう、その子は子どもの中で”特別”になる。

大人の関わりとしてできるのは、
”最初から分けない”ということ。

例えばダウン症の子が運動会でリレーに出るって時に、
『この子だからリレーはできない』
『無理だから』とかは、ない。

 

やらせてみると実際は座りこんじゃったり、どっか行っちゃったりするんだけど、そんな時『なんで◯◯は、ちゃんと走らないの!』って真剣に怒る子もいる。それはその子がダウン症だからとかじゃなくて、みんなに”真剣にやってほしい”っていう思いだったりする。

そうすると別の子が、
『◯◯はそう言われてもわかんないよ』とか、
『じゃあ、手をつないでいこうか』とか。

 

その人を見て、
どうしたらいいか、
今どうしたいのか、

子どもたちのほうが、考えている。

 

それは大人が、子どもたちから学ぶべきことだと思う。

 

子どもたちはそういったものをたくさん持ってるし、関われば関わるほど、引き出しは増えていく。

どの子も障害あるとかないとかじゃくて、それぞれ個性は持っている。
それを大事にするってことだけですよね。
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自由とは、自分で責任を取ること。

例えば、
『木に登る』って1つとっても、
一人ひとりの子どもによってこちらの対応が微妙に変わってくる。

”やめときな”って止めなくてはいけない子もいるし、
登らしておけばいいって子もいる。
下で見守ってれば大丈夫って子もいる。

子どもが何か1つアクションをした時、それをどこまで見ておけばいいのかは、その日の状況によっても違うし、その子によっても違う。
本来はひとつひとつ考えるべきだけど、結局考えた責任は自分で取らないといけない。
だから、”木は登らない”ってルールを作ったほうが楽なんだよね。

大人が責任を取れないから、マニュアルを作っちゃう。
”自由”が怖いんだよね。

実際は、子どもを止めるっていうのは本当に大変だから、楽じゃないのに(笑)

保育者にもまず”自分”がある

子どものいろんな個性を認める大前提に、
保育者も”自分”という個性がある。

保育者は、”保育者としてのなんちゃら”っていうの勉強するけど、やるのは自分。
子どもたちの個性と横並びでしかない。
例えば、
よく”待つ”とか”見守る”とかいうけど、

逆に自分もすごく待ってもらってるし、
勘弁してもらってるし、
受け止めてもらってる。

 

30人の中の1人として、
『あおくんしょうがねぇな』とか思われながら、
いろんなことをしでかした僕を許してもらってる。
たぶん、
そっちのほうが大きい。
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そんな中で、自分は自分でしかない。
自分じゃないものになろうなんて思ってないし。

 

多くのひとが自分っていうのを消して保育者になろうとするから葛藤する。
逆なんだよね。
僕にとっては”保育者”っていうのは自己表現の1つで、保育者というフィルターは通すけど、仮面はかぶってない。

 

そうじゃないと、
いざって時に感性が働かない。

 

僕だって子どもに怒る時もある。

なんでそこで怒ったのか?
それは教育上なんたらかんたらじゃなくて、自分がすごく大事にしていることだったりする。
生身の人と人として関わっていくっていう時に、自分がないとやっぱり何にもできないし、面白くなくなっていくと思う。

保育の場の”質”

就学前の時期は、人間形成においてすごく大きなパーセンテージをしめる。

今、保育園を増やそうという動きがありますよね。
ということは、これからより多くの子どもたちが”園”という場で育っていく。
でもその”園”という場所がひどい場所だとしたら、本当に怖い。
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教育ってちょっとずるいって思うのは、

いつも
『子どもたちの未来のために』とか、
『こういう人に育ってほしい』とか言いながら、子どもたちの今を虐げたり制限したりする。
いつでも子どもたちの「今」は、未来のための担保に入れられている。

でもその未来になった時、
責任とるのは本人だけ。

そこに教員が付き添うわけでもない。

保育園を増やすのはいいけど、
人が”育つ場所”ということを忘れてほしくない。

親ができること。

僕自身もすごく小さく産まれて、
小学校時代も、みんなが普通にできることが、できない子だった。

学校行く途中に、じーっと座り込んじゃったりしてなかなか辿りつけなかったり、忘れ物も多くて、よくランドセル空っぽで行ってた。
そのランドセルも、2回ぐらいなくしたかな?

すごく教育熱心な地域だったから、
『青山くんがいると授業が進まない』って言われてたみたい。

ケンカもいっぱいしたし、
ちょっと問題児だった。

小学校4年ぐらいになって、
自分と周りの子の違いに気づきはじめた頃に、
あゆみ(成績表)の評価が低くて落ち込んでた。

そしたら母が、

『あんたこんなものを気にしているの?あんたは大器晩成なんだから』って言われたのが、唯一の自分のお守りになった。

僕は都合よく解釈して、『遅れているほどいいんだ』って思ってたけど(笑)

 

子ども側からすると唯一望んでいるのは、

”味方であってほしい”ってことだけだと思う。

あとは、”ぼくはぼくでいいんだ”という自信をもらえること。

いまだに僕は、みんなみたいにうまくできないけど、ずっと人と違うってことが当然だったから、いま社会に出て、ある意味そこが、すごく楽かもしれない。
合わせなきゃいけないとか、全然ないし。

 

子どもってどんな子でも親の想いを背負うし、周りとの比較はイヤでもしていく。

 

そんな中で親ができることって、
『あんたはあんたでいいよ』って言ってあげることぐらいじゃないのかな。

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インタビューアー

伊藤真穂
伊藤真穂
(発達凸凹情報サイト管理人)
PC講師、カラーセラピスト。
次男の自閉症をきっかけに2015年より発達障害に関してのママ向けのセミナーを主催。2015年11月に『発達凸凹情報サイト』をオープン。2017年より資格取得スクール 発達凸凹アカデミー主催。

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